市川五郎兵衛(五郎兵衛用水について)

五郎兵衛用水は、今から370年ほど前、江戸時代の始めに、市川五郎兵衛真親が私財を投じて築いた用水です。それまで原野だった土地(現在の浅科村)に用水を引き、開墾して作ったお米が”幻のお米”五郎兵衛米です。

市川五郎兵衛真親は上野国甘楽郡羽沢村、現在の群馬県甘楽郡南牧村羽沢に生まれました。
そのころ市川家は、甲斐国の武田家につかえていました。五郎兵衛の家は武士の家だったのです。
ところが、五郎兵衛がまだ幼いころに武田家が滅びてしまい、市川家は主を失ってしまいました。
これをみた徳川家康から、江戸に来て家来になるようにたびたび誘われました。
しかし、市川家はその誘いを断り、かわりに家康から「家康の領地内ならどこでも自由に鉱山開発・新田開発をしてよろしい」という朱印状をもらいました。文禄二年=1593年のことでした。
市川家は武士をすてて、鉱山開発・新田開発という事業の道を選んだのです。
こうして五郎兵衛は、隣村の砥沢村、現在の南牧村砥沢で鉱山の一種である砥石山の経営を行うとともに、佐久地方で新田開発を行ったのです。
南牧村周辺が、谷あいの米がとれなかったのに対し、佐久地方は米どころであり、またかつて市川家が、佐久地方に領地をもっていたからだと思われます。
佐久地方にやってきた五郎兵衛は、まず三河田新田、市村新田、ともに現在の佐久市を開発し、ついで五郎兵衛新田、現在の浅科村の開発にとりかかりました。
五郎兵衛が、当時この地方一帯を支配していた小諸藩から正式に、矢島原、のちの五郎兵衛新田の開発を許可されたのは、寛永三年=1626年12月のことでした。
このときから本格的な工事がはじまったものと思われます。
そのときまで、この地は不毛の草原でした。水田を作るために必要な用水がなかったからです。
ここに用水を引いてくることができれば、すばらしい水田地帯を作ることができる、そう五郎兵衛は考えました。
こうして五郎兵衛の水源探しが始まりました。
そして水源探しを始めてから3年目、ついに五郎兵衛は水源を見つけました。
それは遠く蓼科山(2,530m)の山中に湧いている湧き水でした。
その水を水源とし、それを岩下川に落とし、湯沢川との合流点、現在の望月町春日でせき止めて取水し、そこから山に沿い、トンネルをうがちなどして用水路を築き、当時矢島原と呼ばれていた五郎兵衛新田まで用水を引いてきたのでした。
さらに、五郎兵衛新田に到達した用水を、村で最も高いところを流すために、盛り土をして、その上に用水を流すという工夫もしています。
これは「つきせぎ」または「つちどい」と呼ばれ、その長さは千メートル余りにおよんでいます。
このように五郎兵衛用水は当時の高度な土木技術によって作られたもの、その全長はおよそ二〇キロメートルで、完成したのは寛永七,八年ころ、つまり足かけ四,五年を要した大工事でした。
そして、この用水をもととして開墾がすすめられ、今日の美田地帯が作られたのでした。
五郎兵衛用水を維持するのも、また大変な作業でした。
いわば土を固めただけのものでしたから、大水や落盤でしばしば壊れたからです。
このため村人は、その補修にも多大な費用と労力を費やさなければなりませんでした。
そうした努力は、江戸時代だけでなく、明治・大正・昭和まで続けられてきました。
その心配がなくなり、用水が豊富に供給されるようになったのは、じつはつい最近のことでした。
昭和三十年代半ばから五郎兵衛用水の大改修工事が行われ、およそ十年の歳月をかけて近代的な用水に生まれ変わったのです。
こうして五郎兵衛用水は、現在では浅科村だけでなく、望月町・北御牧村・小諸市・佐久市の一部まで潤す大切な用水となっています。
ー浅科村・五郎兵衛記念館ー
「五郎兵衛用水について」より

現在の浅科村      五郎兵衛の墓(南牧村羽沢)


五郎兵衛米は、五郎兵衛をはじめとする先人たちの血と汗の結晶です。南牧村にお越しの際は、五郎兵衛米を副原料として仕込んだ南牧麦酒をぜひご賞味下さい!!



ひとりごと

五郎兵衛の功績は、南牧村ではほとんど知られていません。真親神社や五郎兵衛記念館がある浅科村とは対象的です。
真親神社(浅科村)には「関所破りの桜」と呼ばれている桜の木があり、これにまつわる故事があります。

五郎兵衛を奉るため、真親神社に木を植えることにしました。そこで、五郎兵衛の故郷(南牧村羽沢)から桜の木をもらうことになりました。
桜の木をもらった帰り道、碓氷の関所に着きました。しかし、通行手形がないことに気づき関所の役人に理由を話すと、何と!通行を許してくれました。(当時の日本では考えられないことです)
そのころ、人々のために用水路を作った五郎兵衛は有名人であり、関所の役人たちもそんな五郎兵衛を奉る木を運ぶのを邪魔してはいけないと思ったのでしょう。

五郎兵衛用水のおかげで、今までたくさんの人達が潤いました。そしてこれからも・・・私たちは未来の人達に何を残せるだろうか?
五郎兵衛と同じ日本人、同じ南牧村民であることに誇りを持っています。