宋胡録のはなし

昔から美術愛好家や茶人たちの垂涎の的となっていた宋胡録(スンコロク)は、秀吉以前より南蛮貿易
によって日本にも輸入されていました。
その名はスコータイに隣接する古都スワンカロークを語源としており、タイの国ではこの種の自然釉を使
った陶器を総称してサンカローク(SUNKALOK)と呼んでいます。

1855年(安政2年)に日本で作られた「形物香合番付」には、208点の名品が
あげられていますが、その中に西の最上段前頭6枚目に「宋胡録・柿」が、同じく
2段の16枚目に「大中小・宋胡録・食篭」の名があります。


宋胡録の魅力は何といってもその鉄絵(鉄分を多く含んだ顔料で下絵をかき、その上に釉をかけて焼きます)
の面白さにあるといっていいでしょう。
極く微妙な条件の違いによっても多様に変化するこの炎の芸術は、まさに宋胡録ならではのものです。
しかし、13世紀から16世紀にかけて繁栄した宋胡録の産業はその後衰亡の道をたどり、タイ国の北部の農村地帯などに分散して僅かに残りましたが、なぜかそこには宋胡録の命ともいわれた鉄絵が消滅していました。理由は解りませんが恐らくはこの鉄絵の難しさにあったのではないかと思います。
中国やベトナムの陶器の影響を少なからず受けたと思われる宋胡録がなぜ、呉須(青色顔料)を使わずに鉄絵になったのかといえば、それはタイ国に呉須が産出しなかったというだけのことのようです。
これがかえって宋胡録を世界的に有名にする原因になったのでしょう。
宋胡録の釉は2種類の樹木の灰にディンナアナーと呼ばれる田んぼ上積み泥土を調合して作りますが、何しろ全くの自然物ですからその時、その場所によっていろいろと成分の違いが出てくるし、灰にする木の樹皮に附着した土などの異物によっても釉の成分は違ってくるのです。
ですから宋胡録の鉄絵というものは呉須絵のように安定せず、ほんの少しの成分の違いや温度あるいはその炎の状態によって色調が変わり、時には絵を崩したり流したりしてしまいます。
恐らく昔の陶工たちは、新しく釉を調合した時試験焼きをして、絵がきれいに出ない場合はその陶器を失敗品として捨てたのでしょう。
古美術商などの店頭で見かける絵の流れた物や、ナマ焼けのように白っぽくなっているものはこれらの失敗品の出土品です。
絵を定着させない釉や、ナマ焼けで白濁したようの釉も見方によっては趣のある面白い陶芸品を作りますし、茶人の「侘び寂び」を求める心にフィットするかも知れません。
事実、今、白濁した釉の陶器などを「これこそ本当の宋胡録だ」と思っている人は意外と多いようです。
しかし、タイの有名な宋胡録蒐集家のコレクションにはこのような作品は無く、殆どが鉄絵の見事な芸術品で、これが宋胡録の本流です。
宋胡録の鉄絵はようやく1965年頃から復活し、現在に至っています。
1997年にバンコクで開かれた宋胡録陶芸展では鉄絵の見事な作品が数多く紹介され、内外の
陶芸品愛好者の目を見張らせるに至りました。
そしてこれを機に、タイ国の宋胡録研究家や学者たちによって1999年6月、元タンマサート大学学長のチャーンウィット博士を会長に宋胡録陶芸保存協会が設立しました。
タイ人の誇りとするタイの伝統芸術「宋胡録」が南牧村で再び世界の目を集めようとしています。